古文漢文を学ぶ意味は?

みんなと同じように、中学高校で古文漢文を教わって、そして僕が覚えていることは非常に少ない。

源氏物語の男女のゴタゴタや土佐日記の紀行文っぽい旅の様子、漢文に至ってはほぼ記憶にないけど論語のお硬く当たり前のことを言っている感じが面白かったなーくらい。

そんな僕が文章読本という谷崎潤一郎が書いた本を読んでいて感動した。

文章とは何かを教えてもらっているのだけれどそこにあった。

古文漢文を学ぶ事の意味は

音楽的効果、視覚的効果を身につけるため。

どういうことかと言うと、現代的な日本語の文章は分からせる、理解させることに重点を置いているため、視覚的や聴覚的な効果は軽視されている。

例が知りたければ本を読んでくれば分かるが、イメージはつくと思う。

例えば百人一首なんて正にそれであれは完全に音で覚えているし、漢文も意味こそ分からないけど視覚的に雰囲気を掴むことができたりする。

分からせる文章を書きたいならば、口語調の文章を書くのが必須であるが、これに目や耳で感じられるようなエッセンスが加わるとより相乗効果を発揮するからこれを学ぶには古文漢文を勉強するのが良いと、こう言うわけだ。

なるほどなー。百人一首から入ろうかな。

さすが谷崎先生。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

ブッダを読んでいるんだけど

3巻まで読んで

は??って感じた事があって。

それは

人間は苦しむ為に生きるんだよ

ってやつで、なんか分からないでもないんだけど、でも幸福を追求する様な生き方を善としたり、羨ましいと思っている僕には腑に落ちない考え方で。

で、昨日忘年会に行って、

大学の先輩に会って久しぶりに話をして、

みんな社会人になっていて、

ちょっと大人だなって感じたりしたんだけど、

その時にふいに思った事があって。

この苦しむというのは苦しむ事が目的ではなくて、

苦しみの対極にある楽しさだったり幸せの存在をセットで考えるべきで、

つまるところ苦しみがないというのは幸せもない。苦しむからこそ幸せを感じられるという事なのかと。

何が言いたいかと言うと、

何もしない、何もないってのは生きてたら無理だし、それこそ本当につまらないので。

たくさん苦しんでいこうかなと。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

コンビニ人間

村田沙耶香著「コンビニ人間」

気持ち悪さを感じつつも、最後まで読んだ。

こういった作品って過去にも出会ったことがあって、日常の中でさらっと流れている違和感や濁ったものが言語化されてくっきりと見えてしまうからとても気持ちが悪い。

別の角度から見たら感動したとも捉えられるのかもしれないけど、まだ素直にその表現が相応しいとも思えていない。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

塾長に影響され高校生以来に「思考の整理学」を読む

外山滋比古著の「思考の整理学」を読もうと思ったのは、新聞のコラムで僕の勤めている塾の塾長が紹介していたから。

この本に出会ったのは中学か高校の頃のなんかのイベント(全然はっきり覚えてない)課題図書として読まされた時で、その時も非常に衝撃を受けた。そしてその頃この本で紹介されている【寝かせる】が僕と友人の中でブームになった。

普段なんとなく感覚的に行なっていた思考につて論理的に、経験的にまとめられていて、自分の思考法やその整理法と重ねながら読んでいるとなんか面白い。その簡単にできて最たるものが【寝かせる】だったのだと思う。今読んでみると当時とは違うところで引き込まれたりするもので、例えば【教えない】という教育とか。これは昔一般的だった教育法で、師匠を見て学べ的なやつ。現代の受身的になっている教育がかつてのこれは能動的に作用していたと言える。なんかここに興味を惹かれた。考えてみると簡単で、漢文の素読のようなことを演劇にも応用できそうと知識がリンクしたからだろう。

明日の朝のミーティングの準備をせねば!今日はこの辺で。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

舞台 – 西加奈子

葉太の自分の行動に対して反省が早く、肥大化した羞恥心を持っている感じが嫌だった。
共感して嫌悪感を感じる読むのが苦しいのは、物語がディズニーみたいに表面的じゃなくて主人公が必死に踠き苦しむ心情がダイレクトに出ているから。(別にディズニーが嫌いとかじゃなくて、ディズニーは大好きです。)
きっとシンデレラも自分自身を演じている部分があるし、想像だけど意地悪な親戚にも屈しない美しワタシ的な、でもそれを表には出さないし、無論シンデレラのストーリーにそんなもの必要も無い。
生きている人間はどこかで自分を演じている。その種類は様々だけど、自分の正解を見つけられたらいいねと他人事のように楽観的に思う。
嫌いだけど、また手にとって読見返すんだろうなーと思う小説だった。

ぶくぶく茶。鼻につけないように配慮しながら飲むのが哀愁がある。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

時間と存在

ここまで誰かの説明を欲する本と出会ったのは久々かもしれない。
とにかくよく分からない。
分からないまま進んでいって尚分からない。
目次に戻っても存在については定義からなんやら多方面からのアプローチがみられるけど、時間の事に触れられて無く頭が混乱である。
ジュンク堂でタイトルだけで買った本にこんなに悩まされるとは。
ハイデガー著「存在と時間」

分からないけど
もうちょい粘ろう。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

サラバ

西加奈子の小説「サラバ」
上巻、中巻、下巻の3冊で完結するのだけど、普通ならその全部を読んでここに書くべきなのだろうけれど、中巻の途中の今書いている。
この本はアクツアユム君の生まれてから幼稚園、小学校、中学、高校、それから大学、20代を経て30代へ(今ここ)、きっとそれから更に歳を重ねる過程をアユム君視点で書かれた小説で。
なんというかアユム君が30代になったところで急に怖くなった。
僕は本を読むとき、その内容を1つの別の世界の話としてではなく、自分を投影して割と身の回りのことのように感じながら読んでしまう。
ハリーポッターを読めば僕が知らないだけで魔法が使える世界があるような気がしてしまう(決して僕が杖を振ったら魔法を使えると思うほど幼稚ではない)ようにそんな本の読み方をしている。
だからサラバを読みながら、僕はアユム君の成長に合わせて30代になった訳だけど。
アユム君は30代でハゲ始める。そもそも容姿端麗だった彼がそれだけが原因ではもちろんないのだけど、そこから仕事など色んなことを諦めていくのである。
僕は彼と共に歳を重ね30代になったことで、今の自分のやってる事であったり、感じている情熱であったりが、20代のありきたりなこと普遍的な事のような気がしてしまったのだ。
そんな一般的な僕だから、きっと30代になって効率化と諦めを覚えて、、、
ということを何となく想像してしまったら怖くなったのだ。

写真はきっとどこでもドア。

投稿者:Uzuki 投稿日時: