シャワーを浴びてて、自分が頭を洗ったかを忘れる事ってある?

朝起きてシャワーを浴びる。

いつも通り、なので考えずに頭を水で流して髪を濡らし、シャンプーで頭を洗い、水で流す、続いて顔を洗う。

シャワーから流れる水を両手ですくう時にふと、

あれ、頭洗ったっけって思う。

髪は濡れているので水で流しているのは確か。ただシャンプーで洗ったか思い出せない。

でもそのまま洗顔を続ける。

ただ、喉の奥から、もあもあしたものが込み上げてくる。

洗ったか洗ってないか本当に覚えてないのか。ちょっとやばくないかそれ。記憶力の問題なのだろうか。なんで覚えてないんださっきなのに。

不安が襲っているのを無視して、いつも通り体を洗う事で冷静さを保つ。

ただ、洗い終わって尚、頭をシャンプーでごしごししたか思い出せない。

しばらくシャワーベットから水が流れるのを見て、諦めてもう一度頭を洗った。

写真は全く関係ないこの前行った鹿児島で出会ったイケメン西郷さん。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

車のウィンドウから顔を出す少年、彼が見えたものは僕は見えない

僕は塾の仕事が終わり那覇へ向かう車を運転していて、前にセダンが走っている。

車内はいつもは音楽がかかっているけど、今日は無音で、エンジンの音と、車が空気を切る音と、周りの騒音が聞こえる。

運転してるときは基本的に前を見なきゃいけないわけで、そんなわけで前をみていると、セダンの窓から丸いものが見えた。

信号がきっと赤に変わったのだろう、ブレーキランプが前から順について、僕もブレーキを踏む。目はずっとセダンの窓を見てて、そこから少年がひょこっと顔を出す。

小さい頃、僕は危ないから顔を出しちゃダメ!と母親に怒られて大人しく諦めたその行為を奔放にやっている少年が少し羨ましかった。気になって少し奥の運転席に目をやると白髪のおじいちゃんが運転している。

僕は幼き日にあの景色を見ることができなかった。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

沖縄県知事?A分かんねーけど誰がなっても一緒っしょ!?Bへーみんなはその人にいれるんだ〜じゃあ私も〜って人間にはなりたくない様な

日本人と政治の距離感は

日本を変えたいんだ・・・1割

あの人ならどうにかしてくれるはず・・・4割

誰がやっても一緒だよ・・・3割

政治なんてどうでもいい・・・2割

感覚的にこれくらいかなーと思っていた。どう分けたかと言うと上から

・関心があって外向きに行動する

・関心はあって行動する

・関心はあるけど諦めてる

・そもそも関心もない

みたいな感じかな。ほんで、さっとGoogle先生に聞いてみると「20代は6割が政治に関心があり、投票率は4割未満」という調査結果があってまぁそんなもんかとなる。

来たる9月30日に沖縄県知事選がある訳だけど、これに対しての個人の意識は次の公演のいい参考材料になる。

「三月の5日間」はある意味とても時代劇で、2003年3月のアメリカがイラクに侵攻しイラク戦争が始まった時、その時間をラブホテルで過ごす若者とかその他日本の複数の若者の行動や言葉を取り上げた作品で、さっきの分析したデータでいう「関心があって行動しない2割とそもそも関心もない4割」をメインで扱う作品ではあるんだけど、温度感的に日本人と政治の温度を絶妙に表していると思う。

ちなみに人のことを棚に上げて話しても仕方ないので自分の話をすると、僕は政治に関心があって考えて選挙で投票することもあれば、過去分かんないから投票しないってこともあったし、ただ自分が政治家になるって選択肢と、興味もないって選択肢はなかったかな。

僕らは殆どが生まれてから死ぬまで政治を己の行動とするのではなく、他の人に委任して行ってもらう。地球に人間として誕生し日本という国に生まれたからには日本という集団に属することになる。そして日本のシステムの上に生活がある。

人は産まれながらにして平等だなどと言うが、それは哲学の話であってシステムの上の平等ではない。なぜならその大半の人間はそのシステムすら己で変えることもできないほど複雑で大きな集団に放り込まれるのだから。

人間が生きていく目的であるとされる己の幸せの追求にはむしろそのシステムについて考えないのが最善策なのか、と思ってしまうほどに難解だ。

そもそも日々の雑踏や生活に囲まれた状態では、選挙はパズドラのガチャイベント的なイベントみたいにしか機能しない。もちろんある人においては。

かと言って自らを正義と疑わず他人の正義なんぞ排除するなんて輩がツイッターのバズの様に民衆の波にうまく乗る様なことがあればそれに異を唱えることのできる人間ではありたい。

朝からこんな事考えるのは疲れたので今日はここで終わろう。

別に何かを批判するつもりなんて毛頭ないし、ただその一片を切り取ってみただけ、自分の思っていることを言葉におこしてみただけ。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

浮気はバレなきゃいいのか?

先日バーで働いていた時にお客さんが言った。

「浮気しても相手にバレなければ、それはやっていない事と同じ。浮気は気持ちが浮ついただけで、本来の軸はぶれていない。浮気をしたらその事実は無かったことであると自分で信じ込む。そうすれば、浮気をした事はだんだんと風化していき、そもそもそんな事は無かったことになる」

そんな感じの内容だ。

この手の議論は世の中にありふれているけれど、その一般解はなく映画やテレビのドラマで、ある時はツイッターでも展開される。

条件を整理すると、まず男と女が付き合っているが結婚はしていないということ。そしてその関係は自由恋愛であり、個人の感情や判断によって恋愛が許されている。また現代の日本において基本的に浮気は許されないものとされているが、暗黙の了解として人間が(基本的には男は不器用に女は器用に)浮気をすることはあり得るとされている。そして年齢についても考える必要がある。例えば10台と20代では周りの環境が圧倒的に違い同じ盤の上で議論できないので、ここでは20代前半と設定する。

そしてどこからが浮気なのかというその線引きは事実の存在つまり他の異性との性交渉(恋愛感情の有無は問わない)とし、ここでは男が他の女性とヤッたと仮定しよう。

ではまず、浮気がなぜダメなのかを考えてみる。1つ目は想像だが、一夫一婦制の副作用的なものではないかと思う。日本では法律的に一夫一婦制に従わなければならないのでそれを正義だとする時、浮気をすることは明らかに矛盾している。2つ目は人間の内面的な問題で、嫉妬心や独占欲を持つことにある。個人差はあれど、相手を愛し相手に愛された時、そこに第三者の存在があることは互いの嫉妬心や独占欲を煽ることとなる。別の言い方をすると傷つけたり不快感を与えてしまう。

恋愛を考える時にその対象である2人の事を中心考えるのは当たり前のことであるが、その周りを排除して考えるのはこの社会存在する者としてナンセンスであるだろう。

ただし、駆け落ちにあるように自らが属していた周りの社会と決別し、その愛を選択した2人だとしたらその対はお互いを最優先として考え行動するべきで、彼らにおいては浮気は許されないだろう。

さて、こう考えてみると、人間は善と悪や、真と偽があったとき必ず善を選び、真を選ぶ様な前提の元に考えていたようであるが本当にそうだろうか。

僕の生活の中にも少なからず嘘が存在し、見方によっては悪もある。興味がないことに興味があるフリをしたり、優しいフリをしたりすることは良くある。また芥川の蜘蛛の糸の盗人カンダタも蜘蛛に優しかったりと、人間には善と悪が両方存在している。(書いて気づいたが僕は自分をそもそも善人としているらしい。)

そろそろ書き疲れたので、まとめに入ると、男も女も浮気をダメとしたいのならば、自らを潔白な人間である様に行動し、それを相手に信用される関係を継続する必要がある。

バレなきゃいいのか?

バレなければいいという考え方はそもそも人を騙す事を前提としているため正義とは言い難い。つまりそれ相応のリスクを認識した上で浮気をし、隠し続けなければ愚者であり、相手にバレたならば言わずもがなその者は愚者である。

色々飛躍した気もするけど、こう結論付けよう。

福岡に向かいます。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

導かれる歯磨き

僕はソファで歯を磨いている。隣で彼女も歯を磨いている。

お互い特に干渉せず、それぞれのリズムで、手の動くままに歯ブラシを動かす。

僕が先に終わり、立ち上がり口をゆすぎに洗面台に行く。

終わって鏡を見る、歯を磨いている間ずっとこの時間について考えていた。そのまとまらない言葉たちが綺麗に整列するわけでもなくゆらゆらと存在する。

次いで彼女も口をゆすぎにソファから立ち上がる。

このお互いに導かれるように洗面台に向かうこの空気感が心地良かったと感じた土曜の昼過ぎ。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

つまらなかったり、面白くなかったり、

本を読んだり、漫画を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり、演劇を観たりする。

僕が生きてきた中で一番時間を割いているのは本を読んでいる時間かと思うが、それは置いといて、今挙げた事柄には作る側、受け取る側が存在する。そして一般的に受け取る側は自由に受け止めることが許されている。

例えば僕のスマホにはフィルマークスというアプリが入っていて僕は見た映画に0〜5点の得点を付けて記録している。ちなみには僕の一番は4.7点の「アメリ」で、最低は2.5点の「謝罪の王様」である。

自由に受け止める事と評価することは別だと思う。受け止めるとは反射的なことで、その瞬間に感じたり反応したり呼応したりする事で、評価するとはある規定の軸がありそれに沿って良い悪いを判断する訳でその軸が自分ではない事がよくある。

何が言いたいのかというと、僕には評価はできない。評価の規定が曖昧で信憑性なんて一ミリもないから。ただ違和感を随所に感じて、つまらないと思ったのだ。それは人(たとえ友人であったとしても)の努力の嵩とかそんなのは関係無い。だって反射的なものだから。

もちろん僕の教養のなさや感受性の乏しさが故かもしれないし、むしろそれが一番だろう。

僕は作る側にいる人間として、受け取る側の事を考えるとか、、、、

そんな話をしようとしたら、すごく長くなりそうなので今日はここでやめよう。

立体を平面にする面白さ。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

建築と舞台

2、3年ぶりに大学の同期で今は建築の修士課程に通う友人キヨトにあった。次の舞台の準備として、セットなどの大道具や小道具を始め舞台上に存在するものについてヒントをもらえたらと彼に連絡を取った。那覇の男2人にはオシャレすぎる、外見はライトトーンに塗られ、中は間接照明が多めで統一感がないソファーやいすが並ぶ、そんな店でランチをした。

しばらく会っていない彼は思ったより痩せて10代の面影が消え、どことなくたくましさを感じた。それから彼の研究の話や、世界で活躍する建築家の話、彼が作りたいもの、もちろん僕の話も2時間ほど止まる事無くたくさん話をした。

その中で一番感じた面白さは建築と舞台の共通点で具体的な事象を抽象化していく過程だった。詳しくは書かないが、ストーリーや物語などの具体的に存在しているものを人間の描くイメージや想像を如何にリンクさせてリアルの舞台上に持ち出すかという話をしていて、全く分野の異なる建築にも人間の行動を一つの事象として捉えそれを抽象化していくことがあって、すると軸はぶれること無く新たな着眼点に気づき、凝り固まった従来の発想にはないアイデアが生まれたりするという。文字にするとなんだかよくわからない話を、自分が思ってるよりも大きな声でランチのデザートも食べ終わってコップの水が何度も空になるくらい熱く話していた。とにかく楽しかった。ありがとう。また会おう。

別にナルシストではないが最近自分の写真をよく撮って気づいたのだが僕の右目は左目よりも酷く冷たい目をしている。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

台風を待つ

なんでだろう。こんな風に時間が経過する。

デートで早く着いた時の様に待っていて楽しいものでも胸が高鳴るものでもないのに待ってしまう。

待つという感覚は得意ではない。

待っている時間は目的の行為、デートならデートという目的までの何色でもない時な訳で、無くてもいいならない方がいい。

砂時計を見つめる時間というか、ただ時が過ぎるのが目的となってしまう。

そんななんて事ない話。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

不確実な未来

ぼやっと、ゆらゆらと、
自分が進む道を想像する時、心境によってその道がはっきりと、くっきりと、まるで長年通い慣れた通学路を歩いていくように見える時と、恐ろしく曖昧でそもそも道なんて無かった様な気がして恐怖で心臓の鼓動のみが耳に響く時がある。
劇場のホールで他の出演者の演奏や演技を眺めながら(目は見ているけれど、見ていなかったかも知れない)いつの間にか自分の不確実な未来を考えてた。
自分が演じる役のことを考えていたはずだった。
心はすごく奔放で、気分屋で手に負えない。上手くいかないと違う場所に逃げ込もうとする。そして時に逃げをも肯定しようとする。
未来より今だ。

投稿者:Uzuki 投稿日時:

赤信号を渡るということ

右見て左見てもう一度右を見て
僕は車がいなければ赤でも渡ります。
いつ頃からだろうか、小学校の時もこうだった気がする。中学では間違いなくそうしてた。
実家は福岡のとてもとても田舎の方なので、通学路でも信号があっても車は通ってないという状況が多々あったのは覚えている。
もちろん、車が通っている中で渡ろうなんて思わないし、日々急いでいて遅刻しそうってほど焦っている訳でもない。
この行動に友達や彼女からびっくりされたりちょっと怒られたりするが、変わらない。
 
漠然と不市議に思ったのかもしれない。危険がない(と自分は思っている)のに歩みを止めなければならないことの意味が。
 
美しいのかもしれない。渋谷のスクランブル交差点の映像のように、人と車が交互に走り出し、その秩序が守られた状態は視覚的にも心揺さぶられるものがある。
逆に皮肉的に言うと、思考しない機械のようだとも思う。チャップリンの映画だったかな、思考力を失った人間がベルトコンベアーを流れてぼっこんぼっこん叩かれる(なんとなくしか覚えてないけどインパクトはある)様な人間になっている気もする。
 
自分が何を信じるのか。
自分の行動の軸、幹の様なものは何なのだろうか。先日投稿したが、『サラバ』はそれを考えさせられる作品だった。
僕が赤信号でも渡るのは何故なのだろうか。
1分1秒を惜しまずに生きるため?
いや
ちょっとヤンチャな自分を演出するため?
いや違う。
きっと自分自信の考えを肯定するためだ。
自分が感じた違和感や疑問、それに対して考えた答えを行動としてやり遂げることで自分自身を肯定化したいのだ。
何と自分勝手だろう。
こんな人間ばっかりでは社会の秩序は維持できなくなってしまう。
だから僕はそれだけではいけないと思った。そうするならば、自分以外に対して寛容にならなければならない。
でなければ完全に僕は独りぼっちだ。
自分を信じる代わりに他人の行動や考えに対しても広く受け入れるべきなのかもしれない。
最近の僕は怒りっぽい。
車で理不尽な車線変更をされたとき、
ビックマックセットを買ってポテトが明らかにしなしなだったとき、
友人が家に泊まって使った皿を洗わず放置していたとき、
イライラしていた。
今思うと、
車線変更した車はこれから大切な人にプロポーズしようと約束の場所に向かっていて遅れそうで急いでいたのかもしれないし、
しなしななポテトは意外と美味しいし、
友人は皿は洗わなくても洗濯物を乾燥機にかけて畳んでくれていた。
ただ、すぐにそんな心が太平洋の様な人間にはなれそうもないので、イライラした時はその背景を想像力で補えるようにしようかなと思った。
全ては不器用で自分勝手な自分を認めるために、、
これは正解なのかな、
分からなくなってきたのでまた後日考えよう

ただ回るだけのメリーゴーランドは何故か好き、そんなメリーゴーランドの写真

投稿者:Uzuki 投稿日時: