
次回は今月末のアート展seekerに出展予定なので、その打ち合わせを。
前回のゴミ箱に入るパターンから結構変わってます。ピンクです。
ゴミ箱にゴミを捨てる。
鼻をかんだティッシュを、食べ終えたグミの袋をゴミ箱に捨てる。
何気なくいつも行うこの行為が気になったのは、ゴミに関するアートを作ることになったからだろう。
アート展seekerにukiとして作品を出す事になったから、ゴミについて考え始めた。
キメ顔でゴミ箱へgo
よし。キマったな。
すまん、話が飛んだな。
僕がこう、キメ顔でゴミ箱に入ることになった訳を説明しよう。
今回は、ゴミについて考えた時のメモが運良く、少し残っていたので、それを載せる。
「ゴミってなんだろう?」を自分の中で定義する。
僕とゴミの関係、そこに生まれる感情、またゴミの問題点を考えてみる。
そんな感じだろうか。
その時に気づいたのは、
ゴミが人間の意識の外にある状態が
とても気持ちが悪いということ。
実はこれは、凄く当たり前に起こっていることなんだけど、改めて立ち止まって考えてみると、めっちゃ気味が悪い。
例えば、僕たちはゴミをゴミ箱に捨てる。
そして、そのゴミ袋をゴミ捨て場に出す事によってゴミとの関係性が終わる、よね。
でも、これって凄く自分本位じゃないかな。
自分にとって、要らないもの、汚いものは、誰かが処理してくれる訳だ。
まぁ、よくできた世の中とも言えるけど。
こうやってゴミは、僕らの意識の外にさっと出て、あとは誰かがどうにかしてくれるさって感じで、僕たちは生きる。
都合のいい世界だね。
それで、なんか、胸糞悪いなーって思ったら、ゴミ箱に自分を入れて見たくなったのさ。
でこうなる。
自分の部屋のゴミ箱をひっくり返して、
普段のゴミと僕の居場所を交換する。
非常に居心地が悪い。
なんせ狭い。
で、作品はどうしようかと考えているところ。
ポイ捨てというより、ゴミ全般に関心が向いているのだけど、まぁ面白いものを作ろうと思う。
(これは東京のゴミ)
これは本当に悩ませるよね。
どうでもいいけどね、どうでもよく無いよね。
ukiってアートユニットを組んでいるんだけど、どっかに出る時はプロフィール写真とか、紹介文とか、そんなのが必要になる。
もちろん作品にはなんの関係もないんだけどさ、作品の斜め下あたりにあるんでしょ?
とか、SNSとか、サイトに載せるんでしょ?
じゃあ、テキトーじゃダメじゃんか。
で、悩んで、結局どうしたかというと、、、
タイからの留学生に撮ってもらう!!!
僕は会った事もないけど、清人の友達でセンス良いからどうだろー?って言われて、面白そうだからいいかと思って、お願いすることになった。
会ってみると、すげぇいい人なの。
彼の友達と4人でタコライス食べて、早速写真を撮りに行く。
車の中は日本語とタイ語と英語のミックス。
このあたりで、僕があらかじめイメージしていたものは複雑過ぎて、英語では伝えきれないと思って諦めた。
なので、彼のセンスに任せる事に。
加えて、彼の友達の的確なポーズ指示(完璧なディレクションだった笑)により撮影は終了。
そっから楽しくなっちゃって、4人で夜まで遊んで、たくさん喋って、笑って。
で、写真なんだけど、これが最高だった。
これぞukiやなって思う。プロフィールってそういうことかなーと思ったので、そんな写真を選んだ。
ほんと、面白い顔してる。
これが「uki」です。どんな作品を作るのか気になるでしょ?←なんて
あ、かっこいい系の写真がめちゃくちゃ撮れたので、プロフィール写真ではないけど、載せる。
個人的にこっちは、あー、やってんなーって恥ずかしくなっちゃいます。
まぁ、もっとあるんだけど、今回はこの辺で。
写真は「誰が撮るか」と「撮られる対象」が大事ですね。
君もプロフィールどうしようかなーと悩んでいたら、友達の友達くらいのタイからの留学生にお願いしてみるのもいいかもしれない←
「の」がたくさんのタイトルです。笑
誰かさんの影響だけど、僕の中で反射がブームになっています。
これはタイトル通り、フロントガラスに映るスマホの画面を撮ったもの。
でもスマホの画面にはピントを合わせなくて。
色んな階層を情報が行き交っているのが面白くて。
広大な東シナ海の前で、左耳のBluetoothイヤホンとお別れ。
カメラを構えようと肩紐を外した時に落ちて、草が生い茂る地面を見て軽く諦めた。
そんな事どうでもいい気がした。
−−−死にに行けるか?−−−
米軍上陸が迫る1945年1月末。
島田叡(あきら)は、沖縄県知事に赴任し沖縄に降り立った。
(当時知事はまだ官選で、国が選んだ人を中央から派遣していた。)
島田は、沖縄が戦場になることが現実味を帯びたタイミングでの辞令を受け入れ、妻を残して沖縄に来た。
−−−生きろ−−−
それから6月の県庁解体までの凡そ5ヶ月間、県民を守る為、必死の行政を行った。
疎開や食料調達など、結果として10万人もの人々が救われたと言われている。
また、当時は捕虜になるくらいなら自ら死ぬのが当たり前だったが、島田は職員にも住民にも「生きろ」と言い続けた。
彼や彼と共に最後まで職務を続けた職員達の生き方は、凄く心に響く。
−−−最期に見た景色−−−
彼が最期に見た景色はどんな景色だろう。
米軍から逃げるために、島の南へ南へ県庁を移動させながら、遂に、端っこの海が見えた時、彼はどう思ったのだろう。
そんな事を思いながら、車を走らせ、南に向かった。そして、おそらくこの辺りだろうといわれる場所から写真を撮った。
彼と職員達があの海を見て何を感じたのか。
今も変わらない海と空をファインダー越しに見ながら、シャッターを切った。
おまけ