幼い頃に、「こっちが僕の陣地、で、こっから向こうが君のね」って見えない線を指でさーっと引いた。

その線が、現実に高さ3メートル超の金属の網々として、そこにある感じだ。

(実際には、僕自身は線を引いた本人じゃなくて、その陣地で子供が手に持ったおもちゃくらいの感覚。)

そんなリアルが僕の目の前にあった。

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それは日常の景色として突如現れる。

無機質な銀白色の金属糸が規則的に絡み合った壁が、向こうががよく見える壁が悠久と続いている。

米軍基地を囲む「フェンス」。

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たとえ僕が気づかなくても、フェンスは見るたびに“現状”を訴えかけてくるような気がした。

でも、僕はこれに対してのアンサーができなかった。「フェンス」と「僕」の関係性は、与えられるだけの一方的なものだった。

その時、僕の中に生じた漠然とした無力感は、少し諦めの香りが漂っていた。

僕は戦うことを放棄していたように思う。

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沖縄にある米軍基地は、沖縄だけでなく日本やアメリカなど多くの人の膨大な思考や感情や想像力があらゆる方向に複雑に絡み合い、掴み所がないほどに巨大化している。

そしてその話題は、生活の中において腫れ物に触るような扱いをされる。

しかしフェンスは、「僕」や「こっち側」と「何か」や「あっち側」を切り分ける境界として確実に現実に存在する。

18世紀末、西洋諸国がアフリカに勝手に引いた国境はそこに住む人々にどう影響したのだろうか。

第二次大戦後ベルリンの壁が出来た時、その周りに住んでいた人達は、積み上げられていく壁を見て何を思ったのだろうか。

東北の岩手の海岸沿いに高さ12メートルを越す防波堤、海と人間を分断するそのコンクリートの壁が建てられた時、その街の人は何を思ったのだろうか。

書いていると、ふいにそんな事を考えてしまった。

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「何か」と「何か」を分けたり区切ったりする事は、論理的で効率的な場合が多いだろう。

現に生き物を分類することは、生物学においてその歴史とも言える。

しかし、人間の持つ想像力はこの境界にも作用し、時に恐ろしい怪物を生み出す。

その境界が目に見えるものなら尚更だ。

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ここで、改めて作品を見ると、僕はそのフェンスを腕や足でぐっちゃぐちゃに曲げ、ハンマーで体力の限界がくるまで叩き続けた。

破壊や攻撃に見えるだろうか?

否。

これは創造であり、対話である。

破壊願望の存在ら否定しないが、僕の根底にあったのは、それとは真逆の、理解したいとか、当事者でいたいとか、所有したい、という気持ちだった。

破壊したかったのはむしろ、これまでの己の現状だ。つまり僕とフェンスの関係性を変えたかったのだ。

僕は徹底的にフェンスと向き合い、そこから生じたイメージの波に乗った。

空間を隔てて離別する役割のフェンスをマテリアルとし、新たな空間を作り出そうと。

結果としてそこには境界ではなく、一つの金属の塊と無数の小さな空間が生まれた。

それはいろんな矛盾を抱えた怪物の様に見えた。

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