右見て左見てもう一度右を見て
僕は車がいなければ赤でも渡ります。
いつ頃からだろうか、小学校の時もこうだった気がする。中学では間違いなくそうしてた。
実家は福岡のとてもとても田舎の方なので、通学路でも信号があっても車は通ってないという状況が多々あったのは覚えている。
もちろん、車が通っている中で渡ろうなんて思わないし、日々急いでいて遅刻しそうってほど焦っている訳でもない。
この行動に友達や彼女からびっくりされたりちょっと怒られたりするが、変わらない。
漠然と不市議に思ったのかもしれない。危険がない(と自分は思っている)のに歩みを止めなければならないことの意味が。
美しいのかもしれない。渋谷のスクランブル交差点の映像のように、人と車が交互に走り出し、その秩序が守られた状態は視覚的にも心揺さぶられるものがある。
逆に皮肉的に言うと、思考しない機械のようだとも思う。チャップリンの映画だったかな、思考力を失った人間がベルトコンベアーを流れてぼっこんぼっこん叩かれる(なんとなくしか覚えてないけどインパクトはある)様な人間になっている気もする。
自分が何を信じるのか。
自分の行動の軸、幹の様なものは何なのだろうか。先日投稿したが、『サラバ』はそれを考えさせられる作品だった。
僕が赤信号でも渡るのは何故なのだろうか。
1分1秒を惜しまずに生きるため?
いや
ちょっとヤンチャな自分を演出するため?
いや違う。
きっと自分自信の考えを肯定するためだ。
自分が感じた違和感や疑問、それに対して考えた答えを行動としてやり遂げることで自分自身を肯定化したいのだ。
何と自分勝手だろう。
こんな人間ばっかりでは社会の秩序は維持できなくなってしまう。
だから僕はそれだけではいけないと思った。そうするならば、自分以外に対して寛容にならなければならない。
でなければ完全に僕は独りぼっちだ。
自分を信じる代わりに他人の行動や考えに対しても広く受け入れるべきなのかもしれない。
最近の僕は怒りっぽい。
車で理不尽な車線変更をされたとき、
ビックマックセットを買ってポテトが明らかにしなしなだったとき、
友人が家に泊まって使った皿を洗わず放置していたとき、
イライラしていた。
今思うと、
車線変更した車はこれから大切な人にプロポーズしようと約束の場所に向かっていて遅れそうで急いでいたのかもしれないし、
しなしななポテトは意外と美味しいし、
友人は皿は洗わなくても洗濯物を乾燥機にかけて畳んでくれていた。
ただ、すぐにそんな心が太平洋の様な人間にはなれそうもないので、イライラした時はその背景を想像力で補えるようにしようかなと思った。
全ては不器用で自分勝手な自分を認めるために、、
これは正解なのかな、
分からなくなってきたのでまた後日考えよう
ただ回るだけのメリーゴーランドは何故か好き、そんなメリーゴーランドの写真
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